三 代 会 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
○ 第34回三代会を開催 2018年10月28日開催 ○ 第33回三代会を開催 2017年11月5日開催 ○ 第32回三代会のアルバム 2016年8月27日開催
○ 第30回記念 三代会の歌「樹-Tree」 ○ 東京霊園お墓参りの記録 ○ 三代会の開催記録 ○ 祖父様の立茶に列ぶ墓参かな 「久保寛彦著作集」2006年3月発行より ○ 第20回三代会に際して 「久保寛彦著作集」2006年3月発行より ○ 『歌日記』伊藤菊枝著作集 2009年4月16日発行 (2010年6月掲載) 「飯田の思い出」 久保 裕著 『歌日記』の136ページに掲載 ○ 第25回三代会と墓参 2009年8月23日開催 ○ 第26回三代会と画像切り替え 2010年6月5日開催 トップページにもどる |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2018年10月28日三代会 KKR鎌倉わかみや 傘寿:久保章江と、喜寿:八尾泰敬、久保裕のお祝い |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2017年11月5日 第33回三代会 横浜市 ロイヤルホールヨコハマ |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2017年11月5日 第33回三代会 歌「樹~Tree~」を演奏 左から東真未、東心晴、久保強、久保章江 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
東京霊園「樹心流情」 のお墓参りの記録 東京霊園内の地図 お墓の場所 E区の1列1号 にある。 久保家の家紋「三つ割菊」 お墓石の右側に刻まれる墓史 |
祖父(じい)様の点茶(たてちゃ)に列(なら)ぶ墓参かな 久保家のルーツには曾祖父久保道光が江戸時代に鳥取藩で茶道の志埜(しの)流師範として松風宗範と号した記録があります。祖父久保逸民は大正4年に65歳で成仏いたしましたが、漢学者にして詩文に通じ、笑翁の号で俳語に親しむとともに、ことに晩年は茶の湯を愛したといいます。おそらくは世塵に混じらず、風流に遊ぶ人生を全うしたのでしょう。 法名にも「笑翁院釈離塵居士」とその超俗ぶりが示されています。 芭蕉が「西行の和歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道する物は血なり」と言った風雅の道、風流の伝統がまだ息吹いていた時代―― それが翁の活躍期だったのです。 もっとも、一人娘 (であるわが母 幽香)を数学の教職につかせたのは、進歩的で堅実な父親兼教育者の側面があったからでしょう。 久保 寛彦著 1992年11月22日高尾の東京霊園に墓参 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2009年8月23日 第25回三代会の日にお墓参り 20140323 2014(H26)年3月23日(日) 民子さん三回忌、よね子さん一七回忌お墓参り 三代会の集合写真 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第25回三代会 2009年8月23日 八王子「ごん助」で 第26回三代会 2010年6月5日 長野県松川町「清流苑」で |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
第20回三代会に際して 三代会に金メダル 平成16(2004)年9月 久保 寛彦 私たちの三代会は、昭和59年以来、毎年一回ずつ開催して、今回でちょうど20回目となりました。東京、横浜、備州その他各地のホテル、温泉地、山荘、保養施設や、変わったところでは東京湾クルージング、音楽ライブハウスなども利用してきました。毎回40人前後の老若男女の親戚が集まって、食べたり、飲んだリ、喋ったり、歌ったりして一年に一度の気の置けぬ集いを楽しんできたのです。 この会がスタートした頃壮健だった中心メンバーも寄る年波には踏ん張ることができず、信彦(平成2年、71歳=他界の年、満年齢、敬称略)、俊彦(平成7年、85歳),嘉三郎(平成8年、77歳)、よね子(平成10年、88歳)、祐雄(平成15年、94歳)、以上5名の方々が鬼籍に入られました。 一方、この20年間に三代会の会員になることを希望して(?)生まれてきたのは、渋井舞ちゃんから伊藤沙奈ちゃんまで12名で、盛んな祝福を受けました。 こうして毎年一回、血のつながった家族どうしがお互いの元気な姿を確認しあい、微笑み交わし、慰めあい、励ましあう姿は、「親和」と題する一幅の絵のようで、潤いの乏しい砂漠のような親子・兄弟・親類縁者などの人間関係が多い今の世にあって、たいへんに貴重なものだと思います。これは一つの功績であり、誇るべき成果です。まさに金メダルに値します。 今回の記念すべき会は「泰祐・則子と愉快な仲間たち」によってすばらしく準備され、運営されています。三代会のアルバムに光輝ある一ページが追加されることでしょう。 幹事さんたちの努力は大変なものです。場所選び、会場との交渉、資料作り、通知、会の進行、祭りの後の報告等々、まったくご苦労様です。幹事さんの役目は、一文にもならず、褒められもせず、しかも多くの時間を使います。この仕事は利己主義者には、ぜったいにできません。完全な利他的行為です。私たちメンバーへのサービス精神があるだけです。洋の東西を問わず、こういう人々は賞賛されてきました。つまり三代会の幹事を経験した人とは、「天国への門」をくぐることを許された人のことです。 以上申し上げましたとおり、私たちの三代会には豊かな宝が込められています。今後も私たち一人一人が「親和」の力で結ばれ、お互いを思いやる気持ちによって集まるならば、三代会は末永く発展するでしょう。ひいてはこの国の社会にも明るい未来をもたらすことになるでしょう。 長寿のお祝い 長寿の祝いには次のものがあります。 六十歳 還暦(かんれき)(60年で十(じっ)干(かん)十二(じゅうに)支(し)の組み合わせがひと回りすることから) 七十歳 古稀(こき)(唐の詩人・牡(と)甫(ほ)の詩「人生七十古来稀(まれ)なり」にちなんで) 七七歳 喜寿(きじゅ)(喜の略字を七七と雷くことから) 八十歳 傘寿(さんじゅ)(傘の略字を八十と書くことから) 八八歳 米寿(べいじゅ)(米の字が八十八と分解できることから) 九十歳 卒寿(そつじゅ)(卒の略字を九十と書くことから) 九九歳 白寿(はくじゅ)(百の字から一を引くと白となることから) 高齢者に対する感謝といたわりの念を表すのはたいへん結構なことです。が、同じ○○歳の人に贈り物を上げたり上げなかったり、後(おく)れ馳(ば)せになったり……というのも困りものです。この辺りで「満〇〇歳の年の三代会で××円程度の贈り物をする」という基準を作ったらいかがでしょうか。 私案としては、上表のうち六十(還暦)、七十(古稀)、七七(喜寿)、八八(米寿)、九十(卒寿)の五種類を対象とし、九十歳以降は、毎年その方の長寿をお祝いする、というものですが、会費の中から程度のもので、幹事から心のこもった贈り物をするのがいいと思います。 三代そして四代の若い会員もどんどん増えているのは、大いに喜ばしいことです。ただ若い会員(子どもたち)には、少し退屈な時間でも、このような表彰とか、その会で用意された資料の説明などは、みんなでよく聞くように、乾杯して宴会が始まる前にした方がいいでしょう。 乾杯をしてから、司会者が、「それでは皆さん、しばらくご歓談ください。」といい懇親会となります。その後、出席者の近況の話や、トピックスの話題など、打ち解けた雰囲気の中で聞くのがいいと思います。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第20回三代会 平成16(2004)年9月12日 横浜 グランド・コンチネンタルホテルにて |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『歌日記』 伊藤菊枝著作集 2009年4月16日発行 「飯田の思い出」 久保 裕著 『歌日記』136ページに掲載 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三宜亭と風越山 下伊那農業高校 1999年8月 久保リンゴの標本と 伊藤祐雄・菊枝 下伊那農業高校の リンゴ畑で(左から) 伊藤和子・宮坂由美子 久保佳代子 飯田・時又の伊藤宅 新渡戸稲造の揮毫 「Boys be ambitious ! 」 |
「飯田の思い出」 久保 裕著 平成13年の夏、亡父の七回忌の年だった。私は定年退職して自由になる時間ができて、父の故郷の飯田を訪れた。 父は明治42年に鳥取県倉吉市で生まれた。祖父は鳥取県立農学校(現県立倉吉農業高等学校)の教諭だった。大正13年、祖父が長野県下伊那農業学校(現県立下伊那農業高等学校)へ転職にともなって、長野県飯田に居を移した。父が14歳のとき、それから今日まで父の実家は、飯田にあってご先祖様のお墓も飯田の善勝寺に移されている。父は生前に分骨してお墓を東京霊園にもつくり、平成7年に亡くなったとき、東京霊園と飯田に分骨して納骨されている。 飯田の祖父の住んでいた家には、今でも父の妹、叔母菊枝さんが健在でおられる。平成13年に訪れたときに、私は菊枝叔母さんに飯田で一番いい旅館に泊めさせて下さいとお願いした。飯田の市の中心にある小高い丘の飯田城址にある「三宣亭」だった。 旅館の番頭さんに三宜亭の名前の由来を聞きたら、「天地人」また「雪月花」の三つよいところが飯田にはあるという意味で三宜という名を取ったとのこと。戦時中にここに疎開した岸田国士の「飯田の町に寄す」という次の詩を紹介してくれた。 飯田 美しき町 山ちかく水にのぞみ 空あかるく風にほやかな町 飯田 ゆたかな町 財に貧富あれど 身に貴賎ありとおぼへず 一什一器かりそめになく 老若男女みなそれぞれの詩と哲学のある町 ・ ・ 天竜川が流れる飯田市は、木曽山脈と赤石山脈に挟まれた伊那谷盆地にあり、風光明媚で、気候も穏やかなところだ。市街の中央通りにリンゴの並木道がある。この地方の栽培に適した、小粒ながら甘くておいしいリンゴだ。 祖父は下伊那農業高等学校で農業や園芸教育のかたわら、リンゴなど果樹の品種改良に尽力したと、子どものころから聞いていた。数年前に、この学校に「久保リンゴ」と命名されたリンゴ樹があるというので行ってみた。玄関を入ると正面通路に、大きな古木の標本が「久保リンゴ」と書かれて展示されていた。昭和41年、この学校の創立45周年に、この地方で現存する最も古いとされる同校の果樹園にある、樹齢40余年になる紅玉のリンゴの大樹に「久保リンゴ」と命名したと、説明文があった。 平成15年5月に、飯田にお住まいだった叔父伊藤祐雄さん(菊枝叔母さんの夫)が94歳のご高齢でお亡くなりになった。祖父のいた下伊那農業高等学校の教師をされていた。 JR飯田線で飯田駅から南へ7つめ「時又」駅の駅舎のすぐ向かいに叔父の住居があった。お葬式は、叔父が近くの神社の氏子総代をしていたので、神主による神式により自宅で執り行われた。 居間の鴨居を見上げると、質素な和風建築のこの家には似つかわしくない金縁の大きな額に、「Boys be ambitious ! 」と英文で書かれた額がかかっていた。Inazo Nitobeとサインがある。新渡戸稲造が書いたものだ。 私は、ふと数年前に叔父の農業学校へ「久保リンゴ」を見にいったときのことを思い出した。学校の玄関を入った壁には、新渡戸稲造の揮毫「学如登山」の額があった。昭和4年7月1日の新渡戸稲造が本校で講演をされたときに、生徒のために揮毫されたもので、「「Boys be ambitious !」の書とともに本校の宝であります」と説明文が添えられていた。 叔父の家の鴨居にかかる「Boys be ambitious ! 」の額は、このときのものだと私は思いをめぐらした。 新渡戸稲造は、『武士道』の著者として今よく知られているが、戦前の国際連盟の次長として国際的に活動され、五千円札の顔にもなった人だ。文久2年(1862)に盛岡市で生まれる。明治8年に、後に総理大臣となる黒田清隆が北海道の開拓推進のため、マサチューセッツ州立農学校の校長であった、W.S.クラークを招聘して、札幌農業学校を開設した。翌年、同農業学校の2期生として新渡戸稲造は内村鑑三らとともに入学している。「Boys be ambitious ! 」は有名なクラークのことばだ。 新渡戸稲造は、叔父の学校で講演した4年後、昭和8年にカナダでの太平洋会議に出席の後、病気のため当地のビクトリアで客死した。日本と中国の関係改善と米国の理解を得る平和維持のための活動であった。その努力もむなしく、軍部の台頭は抑えが効かず、昭和12年には日中戦争へと突入していく。そして、米国にも宣戦して第二次世界大戦という不幸な時代を迎える。 新渡戸稲造が「Boys be ambitious ! 」と英文で書いた額が、当時の反米思想と軍部の強圧から、学校に掲示しておくことの不具合を、事前に察知したのだろう。叔父祐雄が、それを引き取って大事に遺したと、推理を巡らせる。立派な思想と、平和を願う思いが心から伝わってくるようでうれしくかった。 祖父は晩年、菊と朝顔つくりに精を出されていたとうかがっている。菊枝叔母さんの詞章を読みながら思い出をあらためさせていただきました。 過去のメモや雑誌に投稿した記事などを読み直しながら、とりとめもなく書かせていただきましたが、美しい町、ゆたかな町の飯田に、お元気にお住まいの菊枝叔母さんの文集に一文を寄せさせていただく喜びと感謝の気持をあらわし、益々のご健康とご自愛を念じながら結びとさせていだきます。 平成20年11月記 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第30回記念 三代会の歌「樹-Tree」 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
左から久保肇、強、心晴、真未 ▶ここをクリック「樹 Tree」の歌 を過去の映像とともに 聞きください (約6分間) |
三代会30周年記念の歌「樹-Tree-」はすばらしい曲だ。 「樹-Tree」の歌詞 大樹をながめ、懐かしい人を想う 途切れない長い歴史は、亡き人を想い出す 「いつでも側にいるよ!」そう聞こえるのは・・・ あなたのお蔭でここにいる あなたと共に今日がある 語り継がれる過去の思い ほら、ごらん、大きな樹になった 心に咲く花のように、清らかな微笑み 手の中の灯火を、大切に絶やさずに 「いつでも傍で見ているよ!」そう感じるのは・・・ あなたのお陰でここにいる 心の中にあなたがいる 一歩ずつの今日がある ほらごらん、大きな樹になった 風の流れは、新しい息吹を運び 新たな出会いが 未来を繋ぐ子どもたち・・・ 愛情を抱きしめて、永遠に手を繋ぎ 暖めようこの日を、未来につなぐ明日を 「いつでも傍で見ているよ!」そう聞こえるのは・・・ あなたのお陰でここにいる あなたと共に今日がある 久しぶりだ、また会えたね 素敵な時間をありがとう 作詞、作曲:久保強 「樹心流情」の心が表されていて、とてもすばらしい曲ですね。 「樹」「心」「流」「情」の文字が織り込まれている。 「樹心流情」の四字熟語を織り込んだ歌詞がよく出来ているね。 この言葉は、『西遊記』で知られている三蔵法師が中国からインドに仏教の経典を求めて旅をした、その旅行記『大唐西域記』に書き残されているんだ。三蔵法師は、唐の長安を西暦629年に出発してインドに至り、16年後の645年に帰国した。現在のインド西北のパキスタンとの国境にカシミールという地方がある。ここは三蔵法師が旅したころガンダーラの王朝が支配していて仏教が盛ん...だった。 仏教の経典もこの地方に多くの原典が書き残されていた。また仏像が初めて生み出され造られたのもこの地方なんだ。ガンダーラ美術として世界的な遺産になっている。 親鸞の代表的な著作『教行信証』の後序(あとがき)に この言葉「樹心流情」を引用して、 「よろこばしいことには、心を広大な誓願の大地に樹(た)て、情(おもい)をはかりしれない本願の法海に流す。」 と記述されている。 平成26年8月記 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ホームページのトップに戻る |